映画「旅のおわり世界のはじまり」監督黒沢清が前田敦子の歌声をただアジアの真ん中で聞かせたかっただけの不思議な解放感。
黒沢清の「前田敦子愛」がファンの間では常識で、「Seventh Code」(2014)、「散歩する侵略者」(2017)に続く集大成なのかを確かめにいつものど田舎シネコンでチケット買ってたら、磁器カードが壊れていて再発行に手間どり開始時間を過ぎた。公開2日目で黒沢ファンも、AKBファンとかも多いだろうし、焦って頭低く座席を目指したが、目が慣れてきたら誰もいやしない。黒沢の新作をぼっち鑑賞出来る。これは贅沢だ。
映画の情報を全く持ってなかった。タイトルからして「村上春樹」的だし、ロードムービー的でもあるし、加瀬亮がいるとハチャメチャが起きるし・・期待はするがどこに連れて行ってくれるのか全く未知数。
「私の心は迷子になった」なるコピーが意味深だ。ホラーを描かせて世界一の黒沢がアジアの砂漠でどんな恐怖を見せてくれるのか・・・
あらすじ)
テレビのリポーターで“ウズベキスタン”を訪れた葉子は、“伝説の怪魚”を探すため、番組クルーと様々な地を訪れる。ある日の収録が終わり、彼女はひとり見知らぬ街を彷徨ううち、導かれるように路地裏につながれたヤギと巡り合う。それは、目前に広がる“世界”との対話のはじまりだった・・・
さて前田敦子である。
黒沢の前作「散歩する侵略者」で天然俳優としての素晴らしさを証明してみせたが、今回は心が迷子にならないといけない。
そもそもこの映画は「迷子」がキーワードのようで
番組は怪魚が見当たらず迷子、ディレクターは撮影出来ないイライラで迷子、前田は歌手になれなかった過去を回顧しつつ町を彷徨う。
スタッフ4人の男性陣と彼氏とのLINEだけが日本語会話で、それ以外は現地での非コミュニケーションの身ぶり手ぶり。
家畜として繋がれた「やぎ」の解放は、何かのメタファーなんだろうがよくわからない。撮影禁止区域での警官との追っかけが唯一のサスペンスなんだけど「第三の男」風にもならず、終始特撮もなければ血の一滴も流れない。
この中途半端さはこっちが迷子になりそうだ。
現地の劇場で突如エディット・ピアフの名曲「愛の賛歌」が流れる。
なんだ、これは?何の関係がある?
いや待て、監督は黒沢清なんだ。
すべての伏線は見事に回収され、あーそうだったのか!と、誰もを映画の国に連れてってくれた黒沢清だ。最終版で一気に畳み込む演出だろう。
このままで終わるはずがないではないか。
しかし、映画は何もしないまま前田の砂漠アカペラ独唱で終わる。
黒沢ファンは目が点になっただろう。
やりっぱなし。風呂敷広げっぱなし。やりたい放題。
しかしある種の解放感はなんだろう。
このシーンを撮りたいがための2時間のぐだぐだ紀行ではないか。
鳥取砂丘でもよかったと思うが、それなら30分で終わってしまう。
脚本読んだだけで商業映画としては失敗とわかるだろう。
だからこんな映画作る映画人はいない。
PIAAフィルムフェスチバルや学生映画の様な挑戦に拍手を送るしかない。それは黒沢清だから。
映画としては失敗、でも失敗であるが故に最後に解放される。
50点。